25歳で音大と私文を目指す人の日記

藝大楽理科と慶應文学部(通信課程から通学課程への編入)を目指す25歳女の記録。応援してください。

6/3 バレンボイムのコンサートに行った感想

今日はバイトを早上がりして、ダニエル・バレンボイムのコンサートに行ってきた。誕生日プレゼントとして買ってもらった18,000円のチケットは、素晴らしい体験に化けた。

 

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会場はサントリーホール。中学の頃は吹奏楽やオーケストラの演奏会に行ったけど、世界的な音楽家のコンサートは初めてだったので、とっても緊張した。あまりの緊張に行きがけの電車で腹痛に襲われ電車を何本か逃した。会場に着いてキョロキョロしながら席を探して座り、ソワソワドキドキしながら、もらったパンフレットやチラシを見たりしていたら、突如オルガンの和音が鳴り響き、次第にホール内が暗くなった。そしてついにバレンボイムが登場。緊張はマックスになり、手に汗が滲んだのを感じた。彼はにこやかで優しそうな人だった。拍手を浴びる姿を見て、「この人は何度この拍手の嵐を体験したんだろう」と思ったりした。そして徐にピアノ椅子に座り、思ったより間もなくして演奏が始まった。それから数秒後、知らない世界に踏み入っていくような、物語が始まるような、特別な感覚があった。ナルニア国物語に出てくるクローゼットに足を踏み入れるような、新しい絵本を読み始めるときのような、特殊な感覚だった。彼の演奏は凛としていて、隙がなかった。長めの和音はそれはもう美しく響くし、フレーズとフレーズのつなぎ方が完璧で、不自然に途切れることも、急ぐことも、遅れることもない。激しい表現の中には繊細さが残っている感じがして驚いた。緩やかなメロディは甘美で心地良い。音の粒が揃っていて、本当に美しかった。彼の演奏を聴いているとあまりに没入感があるため、体が前のめりになり2階席から転げ落ちてしまうんじゃないかと怖くなったりした。

 

演奏中、聴きながらも色んなことを考えたので、書いて記録しておこうと思う。

 

まず、ピアノ自体の音が美しいと思った。私が普段スタジオで弾いているピアノとは質が違うなと思った。最初耳にしたとき、天使の足音かと思った。打鍵音(ぼこっぼこっみたいなやつ)すらも綺麗に感じた。私の位置からはピアノの中身がよく見えたので、ピアノという楽器についても考えたりした。そういえば、ピアノが今の形に落ち着くまでの経緯を知らないなあと思った。調べてみる。

 

あと、バレンボイムは今日前期のソナタを弾く予定だったのに間違えて?後期のソナタを弾いていたけど、後期のソナタにも私が普段聞いている前期のソナタに通ずるなと思う特徴が多々あり、これがベートーヴェンらしさなのかなあと思った。音楽における個性の出し方、私にはわからない。いつかたくさん曲を作るようになって、「自分らしさ」が出てくることがあったりするんだろうか。そんなことを思った。

 

他にも、今現在の、静かに聴衆が音楽を聴き演奏者が演奏をするコンサートのスタイルはいつ確立したんだろうかと思ったりした。演奏者は出てきてはひっこみ、出てきては引っ込み、その度に盛大な拍手を受ける。演奏が始まると拍手はピタッと止む。演奏中は誰もが静かにしている。演奏が終わるとアンコールを求める拍手があり、応えたり、応えなかったりする。スタンディングオベーションしている人もいる。聴衆は洋風の服で少しおめかししている。チラシにはたくさんの演奏会の告知。演奏会を通して、音楽は文化なのだと再認識した。音楽は音楽単体で存在するんじゃない。たくさんの人間を巻き込み、経済を巻き込み、時代背景に左右され、流行りだとか様式だとかを生み出す。

 

今私が耳にしている音楽の足元は、ヒトの歴史と同じだけの長さの歴史があるのだと感じたりもした。ピアノがこの形に至るまで、この曲が生まれるまで、このホールが造られるまで、このコンサートの様式が定まるまで、長い歴史が存在するわけです。私は音楽大好き人間でよかったなと思う。だって、音楽を聴いて何かを感じる時に使っている脳の部分は全人類同じのはず。つまり、数千年前に生きていた祖先も同じ脳の部分を使って音楽を感じていたはず。そう思うと興奮する。あと、音楽で鳥肌が立つ人は限られていると言うけど、私はそっち側で良かったと本当に思った。感情の鬼として生きるのはつらい。悲しいことがあると人一倍苦しい。だけど、その分感じられる喜びも人一倍大きい。私はこれは才能だと思う。私は他に才能はないけど、これだけは誇っていいと思う。今日も、あまりに美しいので感極まって何度も泣いた。泣きながら、今脳のどの部分が反応しているんだろうかと考えた。感情も強いが理性も強い、私はこんな私が好きです。

 

スポットライトに照らされながら演奏するバレンボイム。鳴り響く私たちにとって心地よい振動数の音、楽音。薄暗い客席で静かに演奏を聴く聴衆。咳の音やカサカサ音、噪音。この対比が面白いなと思った。まるで混沌と秩序、感情と理性。中世ヨーロッパでは音楽のもつ自然科学的な要素が重要視され算術や幾何や天文学と共に大学で学ばれたわけだけど、その歴史を持つ西洋音楽の断片を見た、聞いた気がした。西洋音楽がここまで発展できたのは、もちろん経済面政治面での強さのお陰ではあるだろうが、その自然科学的要素、秩序に重きが置かれ、楽典、music grammarが高度に発達したお陰でもあるはず。最近哲学を少し勉強したおかげもあって、なんとなく、西洋音楽の発達の後ろには数的秩序を信奉する社会背景があったと思えて仕方ない。詳しくはもっと勉強します。変なこと言ってたらごめんなさい。とにかく、美しい音と美しくない音が同時に耳に入ってくるのが面白くて、一人で物思いに耽ることができて楽しかった。

 

最後に。演奏が一通り終わり拍手をしていた時、私はまた緊張していました。その時私は、覚悟を決めていたからです。私は、ベートーヴェンソナタを弾かなきゃいけない。恐らくスタインウェイのピアノで、藝大で、何人もの先生たちの前で、まだ譜読みも終わってないような曲を、来年の3月には弾かなきゃいけない。(もし学力検査で落ちたら弾けないけど) 聴音だって、新曲視唱だって、和声だって、楽典だって、試験を受けないといけない。知らない場所で。先生もそばにいない環境で。一人で。拍手をしながら具体的な想像が止まらなくなって、ドキドキしていた。終わった後は、ちょっと放心状態になった。クローゼットの向こう側の世界から戻ろうとして、戻れなくて、暗闇の中で立ち止まっていた。でも帰らなくちゃいけなくて、バイト終わりにヒールなんて履くんじゃなかった足が痛すぎる、と思いながら、とぼとぼ帰った。帰り道、ホール内での敏感な状態、バリアを外した状態だったし、とっても疲れていて、悲しくて不安な気持ちになったりした。でもそんな時は、天使の足音を思い出したりした。駅から家までの道のりは雨が降っていて、傘がなくて、濡れた。課題曲にまつわるコンサートの後に雨に降られるなんて、なんだか縁起が悪いな、大学に落ちた時に「あの雨、この日と繋がってたのか」と思いたくないと思った。考えすぎかな。今夜の雨がなんでもない雨だと証明するためにも、明日からまた頑張ろう。

 

今日のコンサート、行ってよかった。一生の思い出になると思う。彼が「みなさんが思っていた曲と違う曲を演奏してしまいました。そのことを休憩の時初めて知りました。本当にすみません。」と言って会場が笑いに包まれたこと、忘れないと思う。前期ソナタ、ちょっと聴きたかったな。でも、次来たら前期ソナタやるって言ってたから、次に期待です。

 

チラシ見てたら魅力的なコンサートがたくさんあって、どれも行きたい!と思ってしまった。でもしばらくは我慢ですね。自分の演奏のことを考えましょう。頑張ろう。中くらいの目標として、秋くらいになって曲を暗譜して細かいところの練習の積み重ねって段階まできたら、一度どこかのスタジオでスタインウェイで曲を弾いてみたいなと思う。本番をイメージして一発で弾いてみたい。どれだけ自分がダメかを痛感することになるだろうけど、絶対エキサイティングだ。楽しみ。つらい譜読み、やります。

 

読んでくれた方ありがとうございました。引き続き、応援よろしくお願いします。

 

おわり